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今期の展示

常設展
仏陀の形と影 ─故宮博物院収蔵のアジア仏教芸術の美

仏教はインド発祥で、アジア文化の重要な部分を構成しています。紀元前六世紀、釈迦が教えを創始してから、十二世紀末にイスラム教徒が大挙して侵入するまで一千七百年余りにわたり発展してきました。仏教の発展過程で、その教義は時代の流れと共に進展し、宗教の内容は充実していき、思想体系もますます完備されていきます。また各王朝の統治者階級による仏教の保護や推進、僧侶による布教活動、さらに商人や旅人の往来などによって、インド仏教の信仰は日増しに盛んになり、その影響は中央アジア、中国、チベット、モンゴル、スリランカ、東南アジアの各地にまで及びました。東北アジアもまた、中国との往来が頻繁だったことから、仏教は自然に朝鮮半島、さらに日本にまで伝わっていきました。今日、仏教はアジア各地において、豊富で多様な文化の花を咲かせています。


アジア各地の仏像や仏典は、いずれも衆生を苦しみから解き放つことによって、仏果(仏の境地)を得るための教えを伝えていますが、各地にはそれぞれ異なる文化的土壌があります。仏教はそれぞれの土地が持つ文化的な養分を吸収し、「同源異流(同根異種)」ともいうべき地方の特色を数多く発展させました。まさに、変化に富む仏や菩薩、天王、護法などの像や、それぞれ異なる写経方式、表装の形などを生み出しました。これらはアジアの仏教芸術にさまざまな特色を持たせ、その輝かしさは人々の目を奪っています。

本展示は、「誕生の悦び」「仏陀の智慧」「菩薩の慈悲」「経蔵の流伝」「密教の神秘」の五つのコーナーに分けて、時間軸に沿って各地の仏像や経典を展示し、仏教美術における「不変」と「変化」をご覧いただきます。同じ時代に異なる地域で花開いた仏教芸術の美と、その奥深い宗教的哲理を皆様にご鑑賞いただければ幸いです。

コーナー1

誕生の悅び

伝説によると、迦毘羅衛国(カピラバストゥ)の王子シッダールタは、母親のマーヤー夫人の右の脇から生まれ、すぐに立ち上がって七歩歩み、その一歩ごとに蓮の花が咲いたといいます。それから、シッダールタはールタは一方の手で天を、もう一方の手で地を指し、「天上天下唯我独尊(欲界・色界・無色界の衆生は皆苦しんでいる。私はこの苦しんでいる衆生を安んずるために誕生したから尊いのだ)」と唱えました。その後、龍王が天から甘露を降らせ、王子の体を清めたとされています。この不思議な故事に登場するシッダールタ王子こそが、後に仏教を創始した釈迦です。このため、釈迦の誕生日を「浴仏節」と呼ぶのです。今日でも、毎年旧暦四月八日の釈迦の誕生日には多くの寺院で「浴仏」の儀式が執り行われます。現存する、一方の手で天を、別の手で地を指す釈迦の姿を現した多くの仏像は、「浴仏節」の儀式と関係があるのかもしれません。

佛塔欄楯

仏塔欄楯

  • インド・マトゥラー地区
  • クシャーナ朝(西暦1世紀―320年)
  • 西暦2―3世紀
  • 紅砂岩 高さ93㎝


このインド・マトゥラー地区の紅砂岩に彫刻された文化財は、古代仏塔の欄楯一部で、2枚の垂直の柵と3枚の横柵から成っています。垂直の柵はそれぞれ正面に樹木の枝にもたれた女薬叉像が浮き彫りにされ、横柵には様々な蓮花の図案が施されており、クシャーナ朝(西暦1世紀~320年)によく見られる造像です。女薬叉像は表情が柔和で、口もとに笑みをたたえ、両乳房はふくよかで、S字型の体をくねらせ細い腰と大きなお尻を連ね、肌はまろやかでしっとりと潤って引き締まり、造像のスタイルは多くの西暦2~3世紀の作品と一致しています。

女薬叉信仰は、インドの先人が崇拝した地母神や樹精に由来し、豊かな乳房と大きな尻という造形で、豊穣多産のシンボルとされています。樹木の枝にもたれた姿は豊穣を祈る古い儀式に関係すると考えられます。この女薬叉信仰は後に仏教にまとめられ、仏教の守護神のひとつとなりました。


誕生佛

誕生仏

  • 明代(1368-1644)
  • 紀元16 世紀
  • 銅金鍍金
  • 高さ20 ㎝
  • 彭楷棟氏寄贈


寺院では釈尊の降誕の日(四月八日)に降誕会(ごうたんえ)と言う活動が行われるが、浄水や甘茶、或いは五色水(五種の香水)等を信徒に提供し、誕生仏に注ぐ為、灌仏会とも呼ばれている。こうした儀式の特殊性から、現存の像のほとんどは銅で作られており、サイズも小さく、約10~30㎝ほどである。

この誕生仏の外形は、図3に近く、頭上には肉髻相はなく、つやつやしていてしわもなく、まるで新生児のようだ。角張った頭に大きな耳、眉間白毫を帯びた額は広くて、両頬もふくよかだ。上下のまぶたは深々としたアイラインで縁取られており、更に上向きの菱の唇と相まって、扁平な顔立ちに笑み表れている。全身丸々と肥えており、上半身が比較的長く、連珠の文様により縁取りされた牡丹の腹当てを身につけ、釣り紐が、腕の付け根の部分を巧妙にカムフラージュしており、上述の誕生仏と共通している。腹当ては体にぴったりと貼り付き、突き出た腹部を強調しているだけでなく、わずかばかり、腰回りも表現している点から見ても、おそらく十六世紀明代晩期の作であると言える。
 


コーナー2

仏陀の智慧


深い智慧を備えた釈迦は解脱の道を悟り、初期仏教における至尊の導師となりました。しかし、「衆生には皆、仏性がある」とする大乗仏教は、異なる時空の中に他にも弥勒仏、無量寿仏、薬師仏といった仏が存在していることを認めていました。アジア各地の仏像は、インドの影響を受けたり、中国的要素を吸収したりして、各地の仏教文化が日増しに成熟するにつれて、それぞれ独自の芸術的個性を発展させるとともに、各種の仏陀の画像反映し、異なる地方、異なる民族の特色を形成しています。

坐佛

座仏

  • インド・カシミール
  • 西暦645年または653年
  • 黄銅、象嵌銀、赤銅
  • 高さ29㎝


這この仏座像の本体は黄銅を流し込んで作られたもので、白目と両唇はそれぞれ銀と赤銅がはめ込まれており、この種の工芸技法はカシミールの造像によく見られます。この地の仏教は深く根付いていますが、かつてクシャーナ朝のガンダーラ芸術の洗礼を受けたことがあるだけでなく、グプタ朝の全盛期の輝きをも経たため、カシミール造像の独自性をつくりだしています。

この像は、獅子が岩から仰ぎ見る蓮台に結跏趺坐(けっかふざ)して座り、頭は螺髪(らほつ)に覆われ、丸い顔に豊かなあご、美しい細長の眉が施されています。両手は転法輪印(てんぽうりんいん)を結び、右手は衣の裾をつかんでいます。ガンダーラの壮健で写実的な体と厳かな表情を保つほか、衣の紋様は密集して規則性があり、体の構造と曲線の明確さを引継ぎ、台座の銘文が示す時代のスタイルによく合っています。台座の供養人が身に着けている襟が交領の衣服と下袴は、現地の皇室の服飾の特徴を備えています。この造像はカシミール7世紀中葉の逸品であるだけでなく、紀年が明確な現地に現存する重要な造像のひとつで、非常に貴重なものです。

 


コーナー3

菩薩の慈悲


「利他の精神(自己の利益よりも他者の利益を優先する心)」は大乗仏教の精髄であり、衆生を救いたいと願う菩薩こそ、大乗仏教の最も代表的な存在です。菩薩にはたくさんの種類がありますが、そのうち、近い将来に仏陀となることが約束された弥勒菩薩と、大慈大悲(すべての衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲)を本誓とする観音菩薩が特に広く信仰され、共に多くの仏像が造られており、また信仰されてからの歴史が最も長く、信仰の地域も最も広範囲にわたっています。仏教が広まっていく過程において、菩薩信仰とその図像もまたそれぞれの地域の文化と緊密につながり、インドのものとは明らかに異なる菩薩の図像が発展していきました。中国の送子観音、大理国の易長観音などがその例です。
 

彌勒菩薩

弥勒菩薩

  • パキスタン(旧ガンダーラ)
  • クシャーナ朝(西元1世紀―320年)
  • 西元3世紀
  • 片岩
  • 総高さ168.5㎝


ガンダーラは古代インドの国名で、肥沃なインダス川とカブール川流域の間に位置しており、今日のアフガニスタンとパキスタンの一部の地域を含んでいます。この地は長安とローマのシルクロードの経由地で、東洋と西洋の文化が1か所に集まる土地でした。また、かつてアレキサンダー大王に征服されたことがあったため、ギリシア文化の影響を深く受けています。そのため西洋の色彩豊かな造像スタイルが発展し、インド中部のマトゥラーとならび、インドクシャーナ朝の2大造像中心地と称されました。

この菩薩像は奥目で鼻が高く、波打つ長い巻髪が肩まで届き、合理的な体の構造は雄壮ですっと立つ姿を表現しています。幾重にも精緻な玉飾りを付けた体に、重厚な天衣と下裳(したも)のひだや皺を立体的に描いており、西洋文化の強い影響を深く受けていることを示しています。

この菩薩の右手は施無畏印(せむいいん/右手を上げ,手を開いて指を伸ばし掌を見せる形)にし、左手に提げた浄瓶(じょうへい)は弥勒菩薩によく見られる持ち物で、衆生の願いを叶え、救済に導くことを示しています。現存する多くの類似する遺例は当時、弥勒菩薩信仰が流行していたことを十分に示しています。

阿嵯耶觀音菩薩

阿嵯耶観音菩薩

  • 大理国(雲南、937-1254年)
  • 紀元12 世紀前半
  • 銅鍍金
  • 像高52.5 ㎝
  • 彭楷棟氏贈


阿嵯耶観音は、真身観世音とも称されており、中国雲南特有の観音信仰であり、中古時代、雲南に立国した南詔、大理国に於いて最も崇められた天と地の神である。伝説では、南詔立国当初、インド僧に化身して、その助けの下に、南詔の国勢が日増しに壮大になったと言われている。

阿嵯耶観音菩薩の頭部の坐化仏が鎮座している宝冠や整然と両脇に垂れた辮髮、耳璫-イヤリング)などは、易長観音菩薩の立像に似ている。額は低くて広く、両眉は連なり、細い目、低い鼻、厚い唇などは、東南アジア民族の特徴を有している。姿は直立。体つきは繊細で平板。上半身は上着―所謂「衲衣(のうえ)」をつけておらず、広い肩には連珠の広帯の瓔珞(ようらく)―ネックレスを付けている。手には安慰印和と願印を持ち、三角形の臂釧(二の腕につける銀の腕飾り)と連珠の腕輪をし、腰には裳を巻き、花飾りを施した腰帯をしており、これらの特徴は全て遠くインドシナ半島の像の造り方に遡ることができる。この菩薩像は、サイズ、風格、髪飾り、裝飾手法や規律ある弧線のヒダのいずれも、アメリカのサンティアゴ美術館に収められている段政興(1147-1172在位)により造られた阿嵯耶観音像と類似しているため、同時代の作品の可能性がある。


コーナー4

経蔵の流伝

古代インドでは、仏陀の教義は口伝の形で伝えられていきました。その後、その教えを保存する必要からでしょうか、またアジアの異文化地域に伝えられていったことからでしょうか、次第に異なる言語文字によって抄刻された各種版本が作られるようになりました。サンスクリット語、パーリ語、漢語、チベット語など異なる仏教文化の仏典、および満州語やミャンマー語などの、その地域の特色を具えた仏教テクストなど、仏教の経典の多様性という特色を形成していきました。本コーナーでは、故宮博物院収蔵の、抄本・刻本を含めた各種の仏典を陳列しています。書かれた文字が異なるだけでなく、装丁の方式もその年代、地域によってさまざまです。

《內府泥金寫本藏文龍藏經》

《內府泥金寫本藏文龍藏經》

《內府泥金写本蔵文龍蔵経》

  • 清代康熙8年(1669年)內府金泥写本
  • 磁青紙、金泥;木板、金、彩色画、宝石象嵌
  • 各経葉の長さ33㎝ 幅87.5㎝


《龍蔵経》の中の「甘珠爾(カンギュル)」に分類される仏教経蔵です。「カンギュル」とは「仏陀の言葉の訳」を意味し、経(教え)、律(規律)の二部を指します。《秘殿珠林初編》巻二十四の記載によると、「(康熙帝の祖母孝荘)太皇太后の命により作成されたもので、宝石の象嵌、磁青紙、泥金書、チベット文字の「龍蔵経」一部、計一〇八函。釈迦牟尼仏の口伝の諸経が綴られている」と記されており、この「釈迦牟尼仏の口伝の諸経が綴られている」は、「カンギュル」を意味しています。この写本「カンギュル」は清の康熙帝の祖母、孝荘太皇太后ブムブタイ・ボルジギン氏は、康煕6年(1667年)、写本を始め、康煕8年(1669年)に完成させました。過去、咸若館に供えたのは、清宮が記した複数の「カンギュル」の中でも最も美しいもので、最も注目を浴びた作品です。

全部で108函あり、永楽8年(1410年)に南京で完成した函(書簡)数と部類は永楽版《カンギュル》、次に経、律、経典に従って位階は高い物から低い物に配列し、「秘密部」、「般若部」、「宝積部」、「華厳部」、「諸経部」、「律部」の6部に分け、全部で1,057種の経典が収められています。

経葉の長さは87.5㎝、幅33㎝で、各函に含まれる経葉は、それぞれの内容に従って約300~500葉余りと全て枚数が異なり、金泥を用いて特製の藍紙(あいがみ)(mthing shog)に記されました。各函の経葉の上下にはそれぞれ内護経板があり、金字が彫られ、7体の彩色造像が含まれています。内容は仏陀、菩薩、本尊、護法、祖師等、並びに様々に象嵌された珠宝が施され、経板には黄、赤、緑、青、白の5色の刺繍が施された経簾で守られています。内側を守る経板は絹のハーダで覆い、絹製の黄色い経衣、木綿の黄色い経衣、緞織の黄色い経衣の順に被せて経函を守ります。7色の縄で縛り、上下それぞれに1枚の経板で保護し、5色の縄で縛ってから、最後に黄色い木綿の経衣で覆います。

《龍蔵経》の全ての函(箱)は全て、内側から外側へ四層の経衣に覆われており、第三層の経衣は絹織物の重ね縫いで仕上げられている。右上方の角は内側の重ね層内へ折り込まれ、長さ485㎝、幅6.5㎝の七色の暈紋の縦紐が縫い付けられている。経衣の一番外側は、平織り無地の黄色の絹の織物で、三と三分の二幅物の布により縫い合わせられている。中間層は、この度発見された黄色地円形竜紋如意雲紋織物金泥塗装の繻子で、三幅物の布で縫製されており、上部には金糸と色彩絨盤織装彩の七つの円竜紋が、「二つ、三つ、二つ」の順序でアレンジされている。いずれの円竜紋も、その周囲を四角い彩骨朵雲紋で、ますめ状に囲っており、紋様工芸は細かく実に巧みである。最も下にある層は、茶褐色地の折枝梅花及び折枝白木蓮の二種類の図案が交錯する綾織り透かし模様の繻子を使用している。

満州語で書かれた《総管內務府档案》によると、「七竜綢布仏経包袱一百零八」と《龍蔵経》経板の織金装紋様繻子は、全て康熙6年より康熙8年の間、康熙帝の祖母である孝荘太皇太后の命により、南の省の三カ所の共同製作による物とある。当作品は《龍蔵経》一百零八函中のチベット通し番号Tha函に含まれている。
 


コーナー5

密教の神秘


密教、すなわち「秘密仏教」は、仏教のインド的展開の最後の段階です。当時、仏教はヒンドゥー教(ヒンズー教)に対抗するため、唯識哲学を基礎とした本尊観想法の中にインド伝統の咒語(呪文)、設壇(マンダラ)、火供といった儀式を取り入れ、大量の多面多臂像(複数の顔と手を持った像)、怒りの表情を持った像、女性尊といった尊像を出現させました。密続(タントラ、密教の典籍)は、成立した年代およびその内容に基づいて、一般に「事続」「行続」「瑜伽続」「無上瑜伽続」の四種に分けられています。このうち無上瑜伽続は「父続」「母続」に分けられます。中国唐代の密教と日本の密教は行続、瑜伽続が主流でしたが、チベットの密教は無上瑜伽続をその特色としていました。密教美術の内容は豊富で、さまざまな風貌を備えています。

大日如來三尊像


大日如来三尊像

  • タイまたはカンボジア
  • カンボジア王朝(802年-1432年) 西暦12世紀末-13世紀初
  • 銅金メッキ
  • 高さ22㎝
  • 彭楷棟氏寄贈

積み重ねた四角形の台中央に座った仏の両手は禅定印(ぜんじょういん)を結び、くねくねと絡みつく7匹の蛇の上で結跏趺坐をしています。蛇は仏の後ろで扇状に立ち上がっています。座仏はカンポジア帝国(Khmer、 802年―1431年)の典型的な造像の装いで、頭には宝冠を載せ、耳璫(耳飾り)、首飾り、腕輪を飾り、サンポット(sampot/カンボジアのスカート)を身に着けています。胸元の斜線は上半身に袈裟をまとっていることを暗に示しています。座仏の両側には、4本の腕を持つ観音と般若佛母が脇に控えています。

中央の座仏と図像について確認されているのは、過去に考えられていた、《仏本行集経》(Abhiniṣkramaṇa sūtra )等の小乗経典に、ムチャリンダ(Mucalinda)龍王が釈尊を守る物語が描かれていました。しかし近頃の研究ではそれは密教の尊格の大日如来とされ、《真実撮経》(Sarvatathāgatatattvasaṃgraha tantra、俗称《初会金剛頂経》)で10世紀以降、カンポジアに伝わったことに関係する可能性があると考えられています。この三体の像と、別の二体の4本の腕を持つ観音と般若佛母は皆密教の尊各であるとの推論も強まりました。4本の腕を持つ観音、般若仏母、大日如来はそれぞれ「慈悲」と「知恵」、両者を合わせたものを示しています。

持鉞刀黑天


持鉞刀黒天

  • 西チベット中部 丹薩替寺スタイル
  • 明(1368年-1644年)西暦14-15世紀
  • 赤銅金メッキ、宝石象嵌、一部彩色
  • 高さ32.6㎝
  • 彭楷棟氏寄贈

大黒天はチベット仏教に伝わるヨガ密教の護法で、その由来はインドのシヴァ(Śiva)信仰と密接な関係があります。顔と腕の数には異なる部分が多くありますが、憤る表情、ずんぐりした体つきは共通の特徴です。この黒天は顔が1つで腕が2本あり、右手で金剛鉞刀(こんごうまさかりとう)を高くかかげ、左手で胸に血を満たした鉢を持ち、右足を折り左足を伸ばした姿勢で立っています。この種の大黒天は「持鉞刀黑天」(mGon po gri gug)と称されます。儀軌によると、丸い目が3つあり、「牙をむき出し、舌を丸め、髭と髪、眼と眉は真っ直ぐ上を向いている」、「ずんぐりした体、大きな腹、四肢は力強く、頭には五骷髏冠を載せ、首には50の人頭をつなげた首飾りを掛け、虎の革のスカートを身に着けています」。

この像には金を施しふくよかで、瓔珞には様々な色の宝石をはめ込んでおり、非常に華やかです。西チベット中部の山南地区にある丹薩替(gDan sa mthil)寺のスタイルに属します。この寺は1158年カギュ派のパクモドゥパ政権Phagmo Drupa Dorje Gyalpo(Phag mo gru pa rDo rje rgyal po、 1110年―1170年)によって建てられ、13世紀初め、現地のラン(rLangs)氏豪族によって住職に任ぜられるとともに、モンゴルの王子フレグ(Hülegü、 1217年―1265年、フビライの弟)の保護を受け、14世紀にラン氏政権がサキャ(Sa skyas)を打ち破り、西チベットの地位を得て、一時期大いに栄えました。

杜爾噶砍殺魔牛

ドゥルガーが魔牛を叩き殺す

  • インド東北部またはバングラデシュ
  • パーラ王朝 西暦12世紀
  • 赤銅、金メッキ痕有り
  • 高さ38.5㎝


ドゥルガーはサンスクリット語で「近づき難い者」を意味しています。シヴァ(Śiva)の配偶神、バールヴァティー(Pārvatī)の憤る表情は、ヒンドゥー教の性力派が最も重要とする崇拝対象です。この一派は「シャクティ(Śakti)」(宇宙計り知れない力)、つまり宇宙の根源である「梵(神聖・清浄)」(Brahma)です。異なる経典によると、腕は8本、10本、16本、18本等様々です。

これはドゥルガーが魔牛の阿修羅をたたき切るところを描いた物語です。後者が三界(欲界、色界、無色界)をほしいままにする時、神々が集まり「シャクティ」を呼び覚まします。そして女神ドゥルガーが化現し、神々は次から次へとドゥルガーに武器を与えます。粘り強く戦った後、ドゥルガーは魔牛をたたき殺します。この像は10本の腕を持つドゥルガーが、台座の上で牛の頭を叩き割っているところを描いていますが、魔牛の首から阿修羅が姿を現しています。ドゥルガーは右足を獅子の背に乗せて立ち、左足は魔牛の体を踏みつけています。主な2本の腕のうち1本は阿修羅をつかみ、1本は三叉戟(さんさげき/三つまたの矛)で体を刺し、残りの腕は剣、矢、杵、羂索(けんさく)、盾、弓、斧、刺象棒を手にしています。

角の折れた台座、背後の華麗な舟型の光背(こうはい)を簡素化してのこぎり状の炎の装飾を施しているのは、パーラ朝(Pāla 、 750年―1199年)末期の造像の特徴です。全体的にダイナミックさと力強さにあふれ、発揚する気勢が現れています。

関連情報
  • イベント日 常設展
  • 場所 3F S303
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